日々の記録

最悪な家庭環境からの家出。うつ病と診断されてからの職場とのトラブル、自己破産、生活保護を受ける事になった価値のない人間の日記。

少しだけ。

職場の事はあまり語れないのですが、トラブルが合ったのは家出のとき助けてくれた、職場だったのです。


私は凄く感謝していました。しかし期待には中々応える事が出来ませんでした。


なにより、家庭環境は解放されたけど今までのストレスと疲労で身体がついていけなくなったのです。


もう、無理でした。頑張る事自体が重荷でした。


私も馬鹿でした。どうやって甘えていいのかわからないし、素直に思ってる事が言えませんでした。


最終的に心療内科に行き、うつ病と診断されました。


多分本当はとっくになっていたと思う。


とりあえず職場の人に無理せず、頑張ろうねと、最初は良かったのです。


ですが、診断されてから私の病状は更に悪化しました。蓄積されたものが全て乗っかっている感覚でした。


やがて、生活保護を受けざる得ない状態になりました。


そのとき、問題になったのがカードローンでした。

生活保護を受けると借金が出来なくなります。

このカードローンも実は働けなくなった時期がうつ病と診断される前にもありまして、年間で8万しか収入がなかった年があったのです。


親なんて居ません、お金だって人から借りていつ返せるかわかりません。

カードローンに頼るしかなかったのです…


大体200万ちょいを自己破産する事にしました。というか生活支援課の人に第一に言われたよ。今の状態じゃなんもできないでしょ!無理しないで自己破産しなさい?と。


まぁ何も出来ないので当然自己破産の道を選びました。

うん、自業自得だね。


そして自己破産、生活保護、と世間一般では低底、人間扱いされない。というイメージが私の病状を更に悪化させました。


完全に、仕事に行けなくなったのです。


そしたらもう来なくていいと、クビだと。


まぁ何故かバックレた扱いされてたのが衝撃でしたが(そっちから来なくていいとか言っておいて)割愛してますが職場でも確執が合った為仕事を、やめました。


自己破産はまだ手続きの途中ですが、見事に最低ランクの人間になったのです。


だからね、たまにTwitterみると、とても辛くなります。


みんな、仕事してるのに…就職出来てないやつはゴミなんだ…と…


まぁ最近はTwitterの浮上率は低いので思わないのですが、いつまでもそんな気持ちが残るのです。いい大人が情けない。

続き。その2


寝れそうにないので続きを書こうと思います。



そんなこんなで、疲れ果てた私はある日母親から衝撃的な言葉を言われました。


今度、正式にお父さんと籍をいれるんだけど、貴女も入る?



皆さんはこれを聞いてどう思いますか?これは、当たり前の聞き方なのでしょうか。


実は私は母方に引き取られてますが、戸籍上、父方のままなのです。まぁこの時点で既におかしいのですが。


本当のお父さんも大嫌い。でも………


私は母にこう返しました。


貴女の中ではもう、私は娘じゃないのね。と


きっと母親にとってはショックな言葉だったのでしょう、その時母親はその言葉を聞いて今度は、自分の不幸話をしてきたのです。


実はお母さんも再婚されてお父さんは本当のお父さんじゃないという事


そのお父さんの仕事場に連れて行かれて無理やりレイプされた事


……で?って感じでした。正直、私はまだ子供だったけどそんな事娘に話す母親なんて他にいねーよと。

お母さんの環境のが辛かったとか辛い出来事を比べる事自体間違えてる。

もしかしたらこの時に既に私の気持ちは決まっていたのかもしれない。


ある日の夜。確か高校2年の9月だったと思います。


私は勇気を出して言いました。

次の給料からは一切お金を入れない。一人暮らしする為にももうお金を入れない。と。

理由は当時の私が馬鹿だったのですが、貯金という名目で母親に、30万預けたのです。そして見事にその30万は使われてました。親を信じた私が馬鹿だったのです。


まぁ、そう言った母親はキレ出して、すぐに父親にその事を言ったのです。

そしたら父親は早々に私の部屋に来て、いきなり殴る、蹴る、髪も思い切り引っ張るわ、そりゃ痛かったです。

そして散々ボコボコに殴った所で自分達の部屋に戻っていきました。母親は、助けてなんてくれませんでした。


私は今まで散々あなた達大人の都合で友人を唐突に失い、母親が勝手に縁を切って親戚も失い、挙げ句中学からお金儲けに利用され、高校では夏休みだって1日しか休みを取らず、学校がある時も毎日働いてたのに給料の半分以上持ってかれ、学費だって全て自分で払ったのに………………………


一体なんの為に生きているの?


私はこの人達の金の為に生きてるんじゃない。


もう嫌だ。痛いのも苦しいのも御免だ。


様々な感情が一気に溢れそうになりました。しかし言った所でまた痛い目に合うだけ。



だから、最低限の荷物を一気に纏めて家を飛び出しました。


深夜2時くらいだったかな。


飛び出したとき、母親は私の名前を呼んでました。


もしかしたら追いかけてくるかもと、思い私は全力で走りました。




でもね、追いかけてなんて来なかったんです。




つまり、私はあの人達にとって家族でもなんでもないと悟りました。





私は最後、追いかけてきてくれるんじゃないか、と期待していたのかもしれない。






そして色々な事が間にあったものの、私は当時働いていたアルバイト先の責任者の方に助けて頂いて、社宅、という形で一人暮らしをする事 出来たのです。

続き。


それから5年生になるまで地獄の日々でした………


学校では貶され、家では父に殴られる。最悪な日々でした。


クラスメートは私を含め8人。一人だけイジメなんて良くないと思ってくれる子が居ました。私はその子に教室、2階だけど飛んだら死ねるかな?と言った事もありました。

イジメはクラスメートだけではありませんでした。5年生の上の人達にもシカトされたり、酷いものでした。

幸いにも先生達は優しく、よくイジメでのことを相談していました。

5年生になってからは何故か(笑)イジメがなくなって学校では普通に過ごせました。ようやくみんなと仲良くなれた5年生の終わり、またも親の都合で転校することになってしまいました。


またイジメがあるんじゃないか……と思ってましたが、なんとか乗り切り卒業しました。


しかし中学はまた親の都合で、小学校の友達とは別れてしまいました。

誰自分を知らない学校で、またイジメられたら…という不安と父の暴力にびくびくしながら過ごす事になったのです。


イジメはありました。でも、友達がいました。


幸いにも友達が出来たので良かったのですが、この頃の私はイジメよりも家庭環境に苦しみました。


家に帰ると、食事がありません。


中学生になったので給食などなく、お昼ご飯もない状態でした。


そして親が帰ってくるまでご飯を待つと、なんでこんな時間まで起きてるんだ!と怒られました。中学1年生のときは親がまるで私の事を考えてくれていなかった。


中学2年生になった時、親が弁当屋のチェーン店を経営していて、それを学校が終わった後、土日全てを、手伝わされる事になったのです。

地獄でした。私のミスじゃなくアルバイトのミスを私に指摘し、怒られました。ただ救いだったのは働いたらその日の夜にお小遣いをくれるようになったのです。おかげで、2年生からはお昼ご飯をコンビニで買うことが出来ました。


しかし、中学生。遊びたい年頃です。私は一度だけ友達と土曜日遊びの約束をしたのです。


そしたら両親共々大激怒。父親には殴られました。

なぜ遊びにいくのがいけない事なのか私にはわからなかった。


中学生の時はお盆やお正月が大嫌いでした。

何かしら父親とトラブルになりそのたびに殴られるのです。


こんな人生嫌だ思いながらも八つ当たりも出来ず、行き着いたのはリスカでした。その跡は今でも腕にあります。

これしか縋れなかったのです。


高校に上がるときも大変でした。

定時制に行くと決めたのですが、親は僅か600円の受験料すらぐちぐち文句を言っていました。入学金の1万くらいも文句の、嵐。


そして私自身も決めていましたがアルバイトも当然する事に。


今思えばアルバイトなんてしなきゃ良かった。


初めて自分で働いて、頂いたお給料。

全て親に持ってかれました。

長くなるので割愛しますがほぼ毎月のことでした。


そして父と顔を合わせる度に殴られる。

一 酷かったのは母親がいないとき、父親に包丁を突きつけられた時でしたね。

まぁ私は休みなく、毎日アルバイトし、お金は持ってかれるし、殴られるし、疲れてました。高校に上がってから原因不明の頭痛も毎日ありました。

だから、死んでもいいと思いました。


だって、もうこの人達に、私は必要ないから。


私が中学2年生のとき、二人は子供も作ったのです。


だからいっそ殺してお前ら全員不幸になればいいと思いました。


まぁ

結果生きてますがね。


父親と言っても赤の他人の男に犯すぞと母親の前で言われ、母親は止めもせず、私が唯一抵抗した出来事もありました。


暴力はエスカレートし、最終的には父親は、タオルを手に巻いて私を殴るのです。タオルは血まみれです。

母親も殴られてました。なんでこんな男といるの?と毎日思ってた。



まだまだ長くなりそうなのでまた明日にでも。